12分の1スケール 御嶽の赤糸 VS 厳島の小桜

(現在、着色しておりません。) 

当時の戦は騎馬武者による一騎討ちが主流であった。
運動会の騎馬戦のように一対一での戦いが辺り一体でくりひろげられてたと想像される。

その際、当時の弓の撃ち方に則し、必ずお互い相手を左手に見て絶対、外さない距離に近づいてから射掛けた。(1mから3m程度と推測される)。現代の流鏑馬でも激しく揺れる馬上から的に当てるのは至難の技である。

相手に致命傷を与えるまで、何度も相手を左手に見ながら、射掛け合った。
                                    
馬は日本の在来馬である、木曾馬や南部馬が、主流であった。

人馬を問わず噛み付く程の戦場で気後れしない気性の荒い馬が好まれた。
体高は100cmから130cmで、130cmあれば名馬であった。
人が乗ると「6本足の鹿」と間違う程の馬が普通であった。

鎧、その他の装備を着た武者、合わせて80kg以上の重量を背負うため、実際はこの模型のように走るのではなく、駆け足程度だったと(時速8km)推測される。
しかしジオラマ制作にあたっては、あえてそれを無視し自由に想像をめぐらせた。

馬具においては、鞍(くら)、三懸(さんがい)(鞍と馬の胴体を固定させる帯)、鐙(あぶみ)、下鞍、轡(くつわ)全てにおいて平安時代に沿う物を装着た。

矢の撃ち方に関しては、現代の弓道とは、全く違うものであったと思われるが、どのようなものであったかは、分からない。
前九年合戦絵巻に描かれているのが唯一の資料である。

このジオラマでは自由に曲射ちさせてみた。

この武者は位を六位、職を衛府(えふ)と検非違使を兼任した平氏が方の武士と設定したため、弦巻(丸い、ドーナツ状の予備の弓の弦を入れる道具)を太刀の緒と箙(えびら、矢を入れる箱のような道具)の緒に二つ付けている。

国学院大学、故鈴木敬三教授によると太刀の緒に弦巻を付けるのは、衛府である証であり、宮中へ出入りする際の通行手形のような意味合いがあったとされたとされている。

太刀も柄と刀身が一体となり、柄の部分を毛抜き型にくりぬいた、毛抜き型の太刀(通称、衛府太刀)を装着させた。

鎧の制作にも同様に考証し寸法を12分の1にし、実際の国宝、御嶽神社所蔵、赤糸威大鎧、厳島神社所蔵、小桜威大鎧を札(さね)の数、増し糸の位置、菱縫の向き緒の結び方に至るまで、正確に写した。

平安から鎌倉中期にかけて兜のテッペンの穴より髻(もとどり、(ちょんまげ))を出して兜の安定を図った。
髪が無くなったときは引退であった。

吹き返しと呼ばれる、兜の耳のようなものは、横から来た矢を防ぐためとも、正面から見たときに威儀を正すためとも言われている。

新説として、騎射戦において矢を撃ち終わった後、相手方の矢を防ぐため、前屈みになって、袖、兜等で矢を防ぐ都合上、吹き返しが無いと兜が後へ向く力が発生し、あごを引いて顔面を守る姿勢がとりずらいため、前後のバランスをとるために大型化したと考えられる。今後の研究が待たれる。
                                                                 
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